浅草地区の戦災殉難死者慰霊塔。清水谷恭順貫首が「和」と揮毫(きごう)。
「建設趣意書」
思い出づる調べも哀し昭和二十年三月九日の夜、B29百五十機の大空襲により浅草一帯は火の海となる。地をなめるようにして這う火焔と秒速三十米をこす
烈風にあふられ、親は子を呼び、子は親を求むれど、なすすべもなし。おののき叫び逃げまどい、悪夢の如き夜が去れば……眼にうつるものは一面の焦土にて、
一木一草の生づるもなく、あわれ身を焼かれ路傍に臥す無辜の犠牲者は一万余柱を数う。
当時その凄惨な状況は一片の新聞だに報道されることなく、敗戦後に生まれた子供達は戦争の惨禍を知るよしもない。いたましく悲しい夜もいつしか歴史の一駒として消えて行くであろう。
よって我々はここに当時を偲び、不幸散華された御霊の安らけく鎮まりまさんことを祈り、二度とあやまちを繰返すことなく永遠に世界の平和を守らんことを誓い、浅草観音の浄域にこの碑を建立する。
以て瞑せられよ。
昭和三十八年八月十五日
浅草大平和塔維持会
台座には昭和24年に日本人初のノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士による「みたまよとこしえに安らかに、われら守らん世界の和」という言葉が刻まれている。
毎年3月には大平和搭戦災殉難者法要が営まれる。
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