2009.03.10撮影。
第二次世界大戦中、アメリカ軍により行われた東京に対する大規模な空襲は1944年から100回を超えて行なわれました。とりわけ1945年(昭和20)
3月10日に行われた大空襲は、38万発といわれる爆弾を投下。浅草を含めた下町を中心に東京の3分の1を超える面積を焼き尽くし、犠牲者は10万人とも言
われています。浅草寺淡島堂の浅草大平和塔は、旧浅草区111町会約1万人の犠牲者を慰霊するために建てられたものです。
3/10、浅草寺淡島堂で行なわれた浅草大平和塔戦災殉難者法要のようすをお伝えします。参列された皆さん、関係者のみなさん、おつかれさまでした。撮影にご協力いただいたみなさん、どうもありがとうございました。
会場の淡島堂前には、大平和塔維持会、浅草観光連盟、浅草商店連合会、東京浅草組合、浅草料理飲食業組合の花輪が並んでいます
大平和塔前での法要。
大平和塔には浅草寺清水谷恭順貫首が揮毫した「和」の文字。
台座には昭和24年に日本人初のノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士による「みたまよとこしえに安らかに、われら守らん世界の和」という言葉が刻まれている。
「建設趣意書」には以下のように書かれている。
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思い出づる調べも哀し昭和二十年三月九日の夜、B29百五十機の大空襲により浅草一帯は火の海となる。地をなめるようにして這う火焔と秒速三十米をこす
烈風にあふられ、親は子を呼び、子は親を求むれど、なすすべもなし。おののき叫び逃げまどい、悪夢の如き夜が去れば……眼にうつるものは一面の焦土にて、
一木一草の生づるもなく、あわれ身を焼かれ路傍に臥す無辜の犠牲者は一万余柱を数う。
当時その凄惨な状況は一片の新聞だに報道されることなく、敗戦後に生まれた子供達は戦争の惨禍を知るよしもない。いたましく悲しい夜もいつしか歴史の一駒として消えて行くであろう。
よって我々はここに当時を偲び、不幸散華された御霊の安らけく鎮まりまさんことを祈り、二度とあやまちを繰返すことなく永遠に世界の平和を守らんことを誓い、浅草観音の浄域にこの碑を建立する。
以て瞑せられよ。
昭和三十八年八月十五日
浅草大平和塔維持会
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