1945(昭和20)年3月10日、太平洋戦争末期アメリカ軍のB29爆撃機約300機が東京の下町を焼夷弾によって絨毯爆撃。爆撃による火災は折からの強風にあおられ約40平方キロを焼き尽くし、焼失家屋約27万戸、罹災者数は100万人余り。死者数は8万人とも10万人ともいわれているそうです。
隅田公園に置かれた「あヽ 東京大空襲 朋よやすらかに」の碑には、「隅田公園のこの一帯は、昭和二十年三月十日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。(以下略)」と書かれています。(写真と文章はこちらのページで紹介しています)
また、浅草寺境内にある浅草大平和塔の台座には昭和24年に日本人初のノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士によって「みたまよとこしえに安らかに、われら守らん世界の和」という言葉が刻まれています。また建設趣意書には、
「思い出づる調べも哀し昭和二十年三月九日の夜、B29百五十機の大空襲により浅草一帯は火の海となる。地をなめるようにして這う火焔と秒速三十米をこす烈風にあふられ、親は子を呼び、子は親を求むれど、なすすべもなし。おののき叫び逃げまどい、悪夢の如き夜が去れば……眼にうつるものは一面の焦土にて、一木一草の生づるもなく、あわれ身を焼かれ路傍に臥す無辜の犠牲者は一万余柱を数う。 当時その凄惨な状況は一片の新聞だに報道されることなく、敗戦後に生まれた子供達は戦争の惨禍を知るよしもない。いたましく悲しい夜もいつしか歴史の一駒として消えて行くであろう。 よって我々はここに当時を偲び、不幸散華された御霊の安らけく鎮まりまさんことを祈り、二度とあやまちを繰返すことなく永遠に世界の平和を守らんことを誓い、浅草観音の浄域にこの碑を建立する。 以て瞑せられよ。」と記されています。(写真はこちらのページで紹介しています)
浅草のとうろう流し(流灯会)は、昭和21年の復興祭のとき様々な思いや願いを胸に抱える縁者が手に手に燈籠を持ち高張り提灯を先頭に行列し隅田公園の河岸へ至り、一つ一つ隅田川に流していたものでした。その数は毎年三千個近くにも達し年々盛んな浅草行事となっておりました。
史誌によれば、折からの満月に近い月の光に照らされて美しく、河畔にたたずむ人々の見守る内に物故者の冥福を祈り、安心を願う祈りの声と共に川面をただよい流れていった。ときには花火が打ち上げられ、消防実演や消防庁の吹奏演奏も行なわれ、両岸には数十万の観衆も集まり、なかにはアメリカ、イギリス、カナダ、ドイツ等多数の外国人観光客も拝観しており国際的なニュース報道もされるなど盛況であったと記されているそうです。
昭和41年に高潮防止のため隅田川両岸に防潮堤が完成。とうろう流し(流灯会)は廃止されたままになっていました。
「浅草夏の夜まつり 灯ろう流し」は多くの方のご協力により、これを復活して4年目になります。主催者は、流される灯ろうがゴミとなって隅田川を汚染しないように例年全力を挙げて回収しています。
今年もまた、浅草寺僧侶の皆さんの読経と金龍講のみなさんによるご詠歌が流れるなか、たくさんの家族連れやカップルのみなさんが手を合わせながら流した灯ろうが川面に浮かびました。そのようすの一部をお伝えします。
参加者のみなさん、主催者のみなさん、おつかれさまでした。また撮影にご協力いただいた関係者のみなさんに心からお礼を申し上げます。
浅草夏の夜まつり灯ろう流しの記事一覧はこちらです。
主催者、来賓のみなさんの挨拶。
浅草観光連盟、永野章一郎会長の挨拶。
台東区、吉住弘区長の挨拶。
撮影のためボートに乗ったのでその他のかたは割愛させていただきました。
今年は東京芸術大学学生のみなさんによって、白鯨、白象の大灯ろうが浮かべられました。岸からよく見えないのがもったいないほどの力作です。
コメント